喜屋武朝徳(故)1870 ~ 1945
明治3年沖縄県那覇市首里儀保にて誕生。
明治8年、父(喜屋武朝扶)より空手道の手ほどきを受け、当時の空手界の重鎮首里の松村宗棍、泊の松茂良興作、親泊興寛などから空手を伝授され、後に「首里」の達人となった。
沖縄中に「チャンミーグヮー」の威名を知らぬ者はいないほどになったと言いう。
喜屋武朝徳(きゃん ちょうとく1870年~1945年)は、首里儀保村にて誕生。
父親の朝扶は、尚泰候の家扶(書記官)の要職にあり文武両道にたけた高潔な人格者であった。
喜屋武朝徳は12歳の頃、父に伴われて上京し、16歳まで二松学舎で漢学を学ぶ。小柄で体も弱かったので父親から空手や角力を教わる。20歳のときに帰省し、首里手の松村宗棍、泊手の親泊興寛に師事し、空手道の大家となる。
38歳の頃から比謝川付近に居を構え後進の指導に当たった。
通称「チャンミーグヮー」と呼ばれ、体つきはやせて小柄だったが飛鳥のような早技をもって世に知られた空手家。
喜屋武朝徳は、生涯にわたって型の無修正主義を通した。
喜屋武朝徳は、1870年12月(明治3年)、喜屋武朝扶(喜屋武親方)の三男として
首里儀保村(現那覇市首里儀保町)に生まれた。
喜屋武家は尚清王の第十王子、羽地王子朝武を元祖とする首里士族である。
父朝扶は、琉球王朝末期から明治にかけて活躍した著名な政治家であり、松村宗棍の門下生としても
知られる空手家でもあった。
朝徳は、数え年14才になった時、父朝扶から初めて空手の指導を受け、16歳頃になると
父を介して松村宗棍からセイサンや五十四歩の型を学んだ。
父朝扶は琉球処分で上京した琉球最後の国王、尚泰侯の家扶として随行し尚家の屋敷内で住居で
生活するようになった。
朝徳は父と生活するために上京し二松学舎で漢学者、三島中洲より漢学を学んだ。
朝徳の父朝扶は厳格な方で在京中冬の雪の降る寒い日でも庭で空手の稽古をやらなければ
朝食も与えないほどであった。
このような環境で育った朝徳は空手の腕もめきめき上達していった。
東京には約9年滞在、26歳の時に帰省し、泊の松茂良興作や、親泊興寛、前栄田親雲上(ぺーちん)等に
師事した。
空手道を極めんとする朝徳は自ら進むべき道に生涯をかける決心をする。
朝徳は、38歳の頃から読谷村にある尚家直営の牧原に移住し、養蚕の傍ら荷馬車引きなどを
して生計を維持しながら武の修業を続けた。
その後、屋良リンドウ家の長女カマと結婚し読谷村比謝川の畔に住居を構えられ、
農林学校生、嘉手納警察署員、地域の人たちに空手の指導した。
当時は本部朝基先生と共に沖縄で知る人ぞ知る掛け試しの武勇伝が伝わる有名な実践空手家であった。
朝徳の空手理念は、健康増進、護身、人間形成を目的としたものであった。
空手道とは「長年修業して体得した空手の技が、生涯を通して無駄になれば、空手道修業の
目的が達せられたと心得よ」という遺訓を残された。
朝徳の弟子には新垣安吉、長嶺将真、島袋善良、島袋龍夫、仲里常延等がいるが、
喜屋武朝徳の空手は弟子たちによって継承され今や国内外に広く普及、発展している。
島袋善良(故)1909 ~ 1969
明治42年11月5日沖縄県那覇市首里久場川に生まれる。
大正15年、18才の時に大阪に渡り就職。
昭和8年、北谷町字北谷に移住し製菓業を始める。
昭和10年、当時沖縄県読谷村の比謝川湖畔に住んでおられた沖縄空手の大家チャンミーグヮーこと喜屋武朝徳先生の門を叩き空手道に入る。
昭和27年、現在の沖縄県中頭郡北谷町に道場を開設。
昭和34年、北谷損謝苅四々長に就任。
昭和35年、全日本空手道連盟沖縄地区特別本部を結成し、会長に就任、安全性を考慮し防具付組手を採用、本土の空手道選手権大会に、役員や選手を派遣し、本土と沖縄の交流に務める。
昭和36年、米国陸軍第503空挺部隊の要請を受け、若い兵士の指導にあたる。
昭和37年、空手道場の新築、少林流聖武館の看板を掲げ本格的に空手指導に専念することとなる。
その頃、喜屋武朝徳先生から伝授された七つの型と徳嶺の棍に加えてワンチンの型を創作。
一挙動の技が巧みに組み込まれた独特の型が完成した。
昭和40年、沖縄空手道連合会、会長に就任。
昭和42年、沖縄空手道連盟が結成されるとともに副会長に推され、同連盟より範士十段の称号を授与。
昭和44年、61才で逝去。
島袋善保 1943~
昭和18年10月11日沖縄県中頭郡北谷町に生まれる。 昭和27年、父、島袋善良範士に師事し空手道を始める。
昭和33年名嘉真朝増士に師事し、小林流を学ぶ。
昭和41年、島袋善良範士より聖武館、師範代に任命。聖武館本部道場の師範代として空手指導を始める。
昭和44年、島袋善良範士の急逝により聖武館空手道場を継承。館長に就任。
昭和45年、全沖縄空手道連盟、理事に就任。
昭和51年、少林流インターナショナル聖武館空手道協会結成。会長に就任。
『開設50周年記念演武大会』プログラムより抜粋
少林流聖武館の歴史は1935年(昭和10年)初代館長島袋善良が当時読谷村の比謝川湖畔に住んでいた
沖縄空手の大家、拳聖・チャンミーこと喜屋武朝徳先生の門を叩き喜屋武本流の空手を学び、その継承・普及を目指したところから始まる。
1952年(昭和27年)、善良は北谷の地において空手の指導を始めた。
息子善保や甥善治、地域の青少年を集めて自宅六畳間からの出発であった。
1962年(昭和37年)、道場を建築。『聖武館』の看板を掲げ、本格的に空手の指導に取り組む。
1963年(昭和38年)門下生の招聘により善保が渡米。
米国での普及活動の第一歩を踏み出すこととなる。
三年にわたる指導の後帰郷。父の下、師範代として門下生の指導にあたる。
1965年(昭和40年)善良は沖縄空手連合会を立ち上げ、会長に就任。
1967年(昭和42年)県内に組織統一の動きがあり善良は、
長嶺将真(松林流)、八木明徳(剛柔流)、比嘉佑直(小林流)、上地完英(上地流)、兼島信助(渡山流)らと共に
全沖縄空手道連盟を結成し副会長に就任。同年、連盟から範士十段の称号を授与された。
1969年(昭和44年)10月、善良は全日本空手道連盟(会長 笹川良一)から全日本空手道選手権大会(日本武道館)での模範演武の招待を受け、
全沖空連の高段者20余名の一員として参加。セイサンの型を披露する。
しかし、帰途大阪において急な病で帰らぬ人となった。享年61歳であった。
志半ばにして急逝した父の遺志を継ぎ善保が二代目館長として就任。
さらに精力的に県外・海外に渡り、空手セミナーを行った。
1976年(昭和51年)10月、少林流インターナショナル聖武館空手道協会を設立し会長に就任。
1999年(平成11年)国際沖縄少林流聖武館空手道協会に組織名称を変更する。
そして現在、県内3道場、県外5支部、海外14ヶ国に200余の支部を有する組織となった。